発達障害児の娘に想う事。『普通』という社会の取り巻くの生きづらさ

発達障害

娘は来年度から小学校へ通うことになる。

未就学児の時からおもちゃの取り合いをしたら、必ず手がでたり、人よりも物に興味を持っていた。何かと癇癪を起してはどう扱っていいのか分からず、母親としてどうすべきなのかずいぶん悩んできた。

世間でいう”子育て疲れ”を様々なところに相談し違和感を感じながらも解決することのない育児は、自分の気持ちが弱いから…と情けなくなりながらも、やっと親子ともども生きてきた。

もちろん私自身も”アダルトチルドレン”を抱えているので、世間一般でいう通常の家庭で育った人よりも、育て方や接し方には人一倍気を遣い、感情が抑えきれない部分もあるのは事実だ。

でも、やっと”子育て疲れ”原因がわかったのだ。

娘の”子育て疲れ”の要因だったのは…発達障害だったのだ。

発達障害の中でも『自閉症スペクトラム(ASD)』の軽度と年中に診断されてから1年以上が経ったが、そのたった1年間の中で、やっとの思いで私たち家族の生活だけでなく考え方も110℃くらい変わっていった。

こたつみかん
こたつみかん

発達障害と診断されても180℃きっかり初めからできるわけではない。

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『お子様の発達は普通ですよ』その普通とは何ですか

年相応の発達は普通と言われてきた。言葉が遅れている訳でも運動が極端にできた訳ではないので、確かに普通といえば普通なのかもしれない。

兄弟げんかが絶えない事、幼稚園でも一人で遊ぶ方が多かったが、それも定型発達の子だってやることである。

一日中張り付いて娘を見ていたわけではないが、担任の話を聞いても心理学の育児相談をしても、どの子もやることで『普通』であり、少し得意なことは熱中してしまう芸術肌な子供という捉え方なのだ。

では、発達障害も『普通』なのではないか。

人によって『普通』の捉え方は異なり、その範囲は広かったり狭かったりする。私の中の『普通』も自身の人生経験の中での中央値から『ここからここまで』という範囲を決めてしまっている。

『ここからここまで』の範囲を超えると『普通』ではなくなってしまうのだ。

けど、その範囲というものは角度を変えるとどうなのか。

角度、それは『子供の目線』という角度である。

私たち大人が高い位置から見ている風景と、低い位置で見ている子供たちの見ている風景とが違うように考え方だって違ってくる。

それに、一番大切なものは…『子供であっても一人の人間』なのだ。

子供であっても一人の人間として向き合っていれば『個性』として捉えられるのに、親子、集団、社会という枠に入ってしまうと何故か『普通』にどんどん拘りを強いられてくる。

『個性』と言われているのに、突然『普通』から突出してしまうと『変な人』になってしまう、『普通』という世の中は何なんだろうと感じてしまうのだ。

見た目では判断できない外見と内面のギャップ

一番『普通』に見えてしまうのはもっとも外見である。

外見は全く定型発達の子とかわらない。また、うちの子は平均身長よりも高めとあって、何学年か上に見られることがある。身長や見た目の成長と、内面的な行動やコミュニケーションの取りずらさというギャップが1番現れる。

内面的な行動も対人でなければ、一見研究者のような探究心に満ちたものなのである。

自閉症スペクトラムの特徴として、視力としては正常でも視野は狭い傾向がある。例えば『普通』の人は気にならないいたって普通の石や棒でも『特別』なものにみえてしまう。形や色、長さにいたるまで違いを指摘できるのだ。幼児から児童になる時期。それは一番顕著であり、一番のギャップかも知れない。

その『普通』から『特別』に変えてしまう発達障害の特技はものすごい洞察力だなと感じつつも、『普通』の人には理解を超えた者にならざる得ないこともある。

発達障碍児の親である私自身も感じるものである。

ただ、『普通』から『特別』に変えてしまう発達障害の『特技』であって、本来人間がもっている探究心にすぎないといしたら『変な人』になってしまうのだろうか?

親子で感じることは集団でより顕著になる

社会には一定のルールというものがある。

家族や親子のルールというものは一番小さな最低限のものであるが、集団や社会という範囲が広がってくると人や会社、国といったおのおののルールというものが存在してくる。

人であれば育った環境、会社であれば会社理念にのっとったルールがあって当然なのだが、大きな集団になればなるほどルールというものは細かく分類され、厳しくもなる。

ルールというものも人が作ったことに変わりはないが、お互い縛るものではなく平和的に解決するために作られたものであるという認識するならば、極端な言い方をすると他害になること以外は基本OKではないかと感じる。

ただ、その他害になる事というのが人によって範囲が違うから『普通』ではなくなってしまう。例えば人に少しでも当たってしまったら他害と思う人もいる訳で、範囲が違うのは人それぞれ違うのは当たり前である。その少しの違いでも『普通』じゃないというレッテルを貼られると、発達障害ではない人たちは敏感に避けようとする傾向(共感や共有からくるもの)があると感じる。

この光景を見た親自身も辛いものであり、やはり『普通』という範囲を発達障害の我が子に強いてしまう。親が一番の理解者になってあげたいのに、親自身も『普通』という息苦しさを強いられ、徐々に孤立していくこともあると思う。

実際に発達障害の我が子を持つ親として孤立も感じる。

『普通』とは簡単に孤立を産む…ものでもあるかもしれない。

『普通』とは、孤立させるものなのかもしれない。

『普通』とは他害を含めない人それぞれが持つ許容範囲のようなものであると感じる。

許容範囲は人それぞれ狭かったり広かったりする不確定なもので、重なり合い一番濃い部分が『普通』の中でも最も強い部分を『常識』というものになると思う。他人を傷つけることは良くないというのが『常識』というのも以外はほとんどが曖昧なものから成り立っている。

その曖昧な『普通』の部分も1人の強い発信者がいることで、強く濃いものになっていく。もちろん反対者もいるが、もともと人間の中に持ち合わせている共感性や社会性というものが『普通』から『常識』へと変化させ、『普通』というものがどんどん厳しくなっていく。

住んでいる環境によって『普通』という範囲は強くも緩くもなる。住んでいる環境が『普通』を強ければ考えが合わず孤立もある。『普通』とは共感や社会性から逸脱したくないという安心感の為にあるものだとしたら、『普通』ではないものは排除したくなるものなのでしょうね。

本質が安心感を求めるためのに『普通』というものがあるならば、これも人間に持って生まれた性質である。

『普通』でありたい『性質』、『普通』を超えていきたい『性質』

人間は他動物と違い高度な知能を駆使して仲間との連携や平和的な解決をしてきた動物であると思う。

平和的な解決こそが『普通』でありたい『性質』であるならば、高度な知能を駆使して『普通』を超えていくのも『性質』であると思う。

そうやってヒトは進化していたと思うから。

ヒトの『性質』にも普通でありたい『性質』も、普通を超えていきたい『性質』も兼ね揃えて人間なのだとしたら、人間として当たり前に持ち合わせたものなのだと思う。

発達障害は突出した興味や行動をとることがあるが、人間としての『性質』という意味であればいたって『普通』の範囲ではないかと感じる。

大多数が『普通』でありたいという社会の中で生きずらさを感じざる得ないのは事実ではないだろうか。

そういう私も『普通』に憧れていた部分と、娘の『普通』を超えていこうという部分の差がなかなか埋めることができず、苦悩することが多いのも事実である。

ただ、発達障害児をもつ親として、世間の大多数の『普通』と娘の『普通』を超えた性質の架け橋として、どう繋げていけるのかが一番の課題であり、役目であるのかもしれない。

周囲との孤立が怖い訳ではない、孤立は怖い。

だけど、娘を孤立させてしまう方が私が怖い。

そこまでさせてしまう『普通』とは何なんだろうか。

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